林トモアキx上田夢人 戦闘城塞マスラヲ 「私を地中海に@連れてって」     1  聖魔《せいま》グランプリから五日もの歳月が流れた。ヒデオは今日も、一着数百チケットの安パジャマに身を包んだまま。当初はあやふやだったインターネットの歩き方も、かなり板についてきた。  横目にした姿見の中にいるのは、これまでの無理に着飾っていた敏腕借金取りではない。朝か昼かもわからぬ時間に起きて、しかし布団を抜け出すことなく特に目的もなくゲームやネットサーフィンをする自分。そのために必要な最低限の食事《カロリー》を摂取する、ヒキコモリとしての素のままの自分。  ごろごろ。だらだら。  何の目的もない○○ゲーを、何の目的もなく続ける。  ごろごろごろ。だらだらだら。 (なんと、素晴らし) 「ってこぉの若年性生涯型出不精症候群がああああああああああっ!!」  ブチギレたようなウィル子が珍しく踵《かかと》から画面を抜け出した……かと思うと、踵はそのままヒデオの眉間《みけん》、これすなわち人体の急所にクリティカルヒットした。 「……っ、何を」 「じゃありません!! 何なのですかそのヒキコモリっぷりは!? 聖魔グランプリでのあのかっこよさはどこへ!?」  と言われても、ヒデオの目の届く範囲には転がってなかった。生まれてこの方、ゆとり教育以外に、これほどのゆとりを得たことがないヒデオである。  退社の際に社長からもらったのが、五百万チケット。部屋の隅に小型冷蔵庫のごとく鎮座《ちんざ》する、ウィル子のサーバー機にしてもたかだか八十万チケット足らず。まだ四百万チケット以上、余っている。  大会の方だって問題ない。聖魔グランプリで得た勝ち星は、完走者の上位による山分けだ。無論それは優勝したヒデオたちに最《もっと》も多く割り振られ、九十三勝を得た。それまでの勝ち星と合わせれば、実に九十七勝。  三位のリュータたちが五十何勝なので、ダントツの二位、何かの拍子《ひょうし》に一位独走のエリーゼたちが負けるようなことがあれば、エスカレーター式に自分たちが一位になるのだ。  否《いな》、エリーゼと言わずリュータもリリーも、十位|圏内《けんない》にいる連中みんな負けてしまえばいいのだ。つまり自分は、もうこの布団を抜け出すことなく、ゆとりを持って優勝できちゃうのだ。  ははははは。  あはははははははははははははははははは。 「いったい、何の心配が」  そうしてまたゲームの続きに戻るヒデオ。  ウィル子は、すーっと玄関の近くのキッチンに消えていく。そしてまたすーっと……包丁を持って戻ってくる。  しゃきーん☆ 「しねぇえええええええええええええええ!!」 「っ……」  さくうっ!!  間髪ヒデオが横に転がると、それまで頭のあった枕《まくら》に文化包丁が突き刺さる。 「な……、ウィル、子……。一体」 「この人間のクズめ! いいえ、人間の形をしたゴミめ! 貴様など親はおろか人権派弁護士でも見放すのですよーっ!!」  ざくっ! ざくっ! さくさくっ!  ばたんがたんごとんどたん!!  何気にこの都市に来て最もバトルらしいバトル(ただし防戦一方)を展開するヒデオ。 ウィル子はズゴゴゴゴ、と視覚化できそうな殺意を身に纏《まと》い、奇しくもかのエリーゼの如《ごと》く、すーっとにじり寄ってくる。 「……お。落ち着っ……」  お互いに、ぜえはあぜえはあ。 「ウィル子は今、マスターの新の恐ろしさを垣間《かいま》見た気がします! 悪い意味で敵は己の中にあり! ヒキコモリの解消法その一、外に出る! その二、人の会う! その三、声を出す! せっかく立ち直りかけたマスターは、ここに来てその一すらおろそかになり始めているのです!」 「いや、しかし」  外には出た。だからこの都市に来たのだ。人には会ってきた。借金の取り立てとかもしてたし。声だって勝負やそうした仕事に際して、まあ日常会話くらいはこなしてきたではないか。 (……。そう)  ならば手は尽くした。やるだけのことはやったのだ。あとは潔《いさぎよ》く現実を受け止め、心の声に従い、ヒキコモリに戻るのが最も自分らしい、すなわち……。 「正しい、生き方……」  さくぅっ! 「わっ……。わか。りましたので……。しかし。ぼくに、どうしろと……」 「表出ろ。そのままの意味で」  ウィル子がかつてない顔と声を露《あらわ》にする。ヒデオは冷たい文化包丁を首筋に感じたまま、ギコバタと、出来損《できそこ》ないのロボットみたく行進し、六畳一間の楽園から追い立てられる。 「……それで。あの」 「にひひ。それではさっき言ったヒキコモリ解消法を、実践《じっせん》してもらうのですよ!」  なんだか久しぶりに聞いた、にひひ。 「これからマスターには! 酒場のステージで歌ってもらいます!!」 「なっ……それは、つまり」  死ねとッ!? 「待って、もらいたい。君は。どうあっても、僕を殺す気か……と」  包丁でさっくり↓死。  人前でハレ晴れユカイ↓憤死《ふんし》。 「その大袈裟《おおげさ》な発想がヒキコモリだと言っているのです! 一杯引っかけてちょっと歌ってくるくらい、普通! そうしたついでにみんなと仲良くなれば一石二鳥なのですよー! マスターも、本心では生まれ変わりたいと思っているのでしょう!?」 「……、それは……」  また電子ウイルスに説教された……。  しかしウィル子の言い分は限りなく正しく、生まれ変わりたい思いもこれまた図星。 「ではさっさと行くのですよー」 「……。君、は」 「二十歳《はたち》にもなって年下の電子ウイルスに甘えるなーッ!!『リトルチップス』という、この都市で一番大きな酒場です。少ししたらウィル子も様子を見に行くのですよー。いいですかマスター?」 「……いや。しかし」 「もしもそのとき、店の誰《だれ》もマスターの歌を聞いていなかったら!」  本気だ。ウィル子は本気で怒っている。  ヒデオは全身の関節をガクガク震《ふる》わせながら、息を呑《の》む。 「その……、ときは……」 「センター前広場で単独コンサートを開いてもらいます。協賛・魔殺《まっさつ》商会でっ!!」 「っ……」  天地がひっくり返ったような衝撃に、ヒデオは打ちのめされた。  だめだ、そんなことをされては……。  自分はともかく、あの人たちはやるッ!  面白がって本当にやってしまうッ! 「あっ……。悪魔、か……。君はっ……」 「にひひ。にほほほほっ。ひほはははははっ」  ウィル子が笑っていた。金髪縦ロールが似合いそうなくらい高飛車《たかびしゃ》の勢いで笑っていた。 「嗚呼《ああ》、マスター……。哀《あわ》れな|私のご主人様《マイ・マスター》? 忘れてしまったのですか? ウィル子はこう見えても、超|愉快《ゆかい》型にして極悪なのです。その本質はむしろ魔殺商会寄りなのですよー」  あそこの社長の笑顔がダブって見えるほど、凶悪な笑顔。そういえば、妙にあの社長になついてたし。 「わかったらサクッと歌ってくるのです。自分自身のためにも!」  バタン!  と部屋のドアは閉められて。内側からロックされて。一人通路に取り残されたヒデオは、途方にくれるのだった。     2  ヒデオは苦悶《くもん》と葛藤《かっとう》を、無表情と言う仮面の下に隠しつつ。あてどなくさまようように、夜の街を歩いていた。 「……」  もちろん自分だって、できればこんな自分とはおさらばしたかった。生まれ変わりたいのだ。でもそれができないんだから、仕方ないじゃないか。 (……。否……)  冷たい夜風に吹かれて、思い至る。  結局はその「仕方ない」という言い訳。「無理」だと投げ出す心。それが平気で浮かぶことこそ、負け犬の証明なのだ……と。ああ、ハニ悪との戦いで一度は気付いたはずなのに。  それに何度気付いても、やはりただ気付くだけ。生まれ変われるわけではないのだ。  そしてふと顔を上げると、いつしか、件《くだん》の酒場に辿《たどり》り着いていた。 (酒……か)  それもいい、酒を飲んだあの夜のことは、何もかも忘れてしまっていた。ならばこの嫌な思いも、飲んでしまえば全《すべ》て忘れられるかもしれない。ついでに歌うくらいのちょっとした度胸なら、付くかもしれない……。  ヒデオは、フラフラと酒場の中に入った。 「〜♪ 〜〜〜♪」  心に染み入るような異国の歌声は、ステージの上からだった。まさに歌姫とも言うべき、声同様に見目麗《みめうるわ》しい女性が、切ないメロディーを歌い上げている。  名のある歌い手なのだろうか。参加者、運営側の職員、魔殺商会社員の覆面やメイド、エリーゼ商業の労働者。誰も彼もが、ステージのほうへ向いて歌声に耳を傾けて、新たにやってきたヒデオの姿には、誰一人として気付いていない。  ヒデオもまた、そんな歌に心を癒《いや》されながら、カウンターの隅に腰掛けた。 「……光栄だね、チャンプがうちの店に来てくれるとは」  渋みの深い声。スペイン髭《ひげ》した、色黒のバーテンがやってきた。そして小さなグラスに、透明の濃い液体をなみなみと注《そそ》いでよこす。 「……。これは」 「震えたぜ、聖魔グランプリ。こいつはチャンプへの、俺《おれ》からのおごりだ」  ヒデオはウインクするバーテンに頷《うなず》くと、それを一口に飲み干した。 「……」  目の覚めるような、強い酒だった。  だが、うまかった。  このアルコールの苦味と絡み、口の端から胃の腑《ふ》まで、じりじりと焼け付くような感じが、不甲斐《ふがいない》ない自分を責めてくれているようで心地よかったのだ。 「さすがチャンプ、若いのにいい飲みっぷりだぜ。もう一杯どうだい」 「……」  バーテンは見た目どうりなラテンのノリで、二杯目を注ぐ。今度はなぜか、ライムと盛塩も一緒に出てきた。ツマミにしては奇妙だったが、ツマミ以外に思い当たらない。塩を舐《な》め、ライムをかじってまた一口。 (……。うまい)  そこでようやく、気付いた客が一人。  グラス片手に隣のスツールにかけたのは、受付でお世話になったラティだった。仕事帰りなのか、制服姿のまま。 「どうしたんですか? そんな格好で」  パジャマ。しかもよく考えてみたら、勢いのまま飛び出してきた裸足《はだし》である。 「……まぁ。いろいろと」  死にたくなりながら、呟《つぶや》き、そして俯《うつむ》く。 「その様子だと、何か悩み事でも? 私でよかったら相談に乗りますよ」  この都市で様々な人たちに会ってきたが、唯一《ゆいいつ》マトモなのはこのラティだけだった。あとは全て、ウィル子いわくイロモノである。  世の中、話して楽になることもあるらしい。この人は受付でもよくしてくれたし、ちょっと話してみることした。     ・  しかし。自分が実はヒキコモリでした、なんて正直に言えるはずもない。適当に、最近はまっていたゲームについてぼそぼそと。 「はぁ、なるほど。|LSD《エルエスディー》ですか……私は好きな作品ですけど」 「……」  ラティから返って来たのは、意外な反応だった、彼女もゲームをするらしい。案外|大人《おとな》しそうな人なので、アウトドアやスポーツなんかよりは似合っていそうな気もした。 「既存のゲームの概念に捕らわれない……つまりゲームとして成り立っていないから、ゲームとしてはまさに○○ゲーですけど。32ビットの時代に蘇《よみがえ》ったマインドウォーカー。プレイステーション媒体《ばいたい》を用いた現代アートと考えた場合、もっと高い評価を与えられるべきだと思いますよ」  楽しそうにラティが話す。 「だったら芸術の感じ方なんて人それぞれです。ヒデオさんの感性が一方的に間違っているとは思えません」 「……そう、ですか」  なるほど、これがマニアの心なのだろう。それが他者の理解を得がたいものであればあるほど……あたかも秘密を共有するが如《ごと》く、その悦《よろこ》びは増すものだ。  人との交流。ヒキコモリの自分に第一に足りないのは、この気持ちなのだろう。 「あと、そうですね……かまいたちの夜2の、黄金虫シナリオ。あれなんか私、クリティカルヒットです。いわゆるホラーとかって苦手なんですけど、ああいう不条理《ふじょうり》で意味不明な表現から来るおぞましさって私大好きなんですよ。最近だとインターネットで見つけた、ゆめにっきっていうゲームが楽しかったですけど」 (……) 「そうですかぁ、ヒデオさんってゲームもやるんですね。ちょっと親近感が湧《わ》きました」  そうか。傍《はた》から見れば、自分は魔眼の持ち主で、得体の知れない優勝候補で、あげくエリーゼ興業に殴り込みをかけた魔殺商会の凄腕《すごうで》借金取り。そう映《うつ》るのか。 「私も一応魔人なんですけど、日本のサブカルって大好きで。ヒデオさんは、デンドロビウムは……」  ヒデオは一も二もなく頷いた。 「もちろん、好きです」  しかしラティは直後、悲しそうな顔で手元のグラスを見詰める。 「でも鈴蘭《すずらん》様はデンドロビウムどころか、サイサリスもゼフィランセスもだめだって……偉い人には、それがわからないんですね」 「悲しいですが。そういう、ものです……」  ヒデオは空いたラティのグラスに、とくとくとボトルを傾けた。 「ドクターにヴェスパーとミノフスキードライブを積んでってお願いしたんですよ私。それなのに何ですか超電磁鈴蘭って……」 「鈴蘭……」 「あれ、ヒデオさん知りませんか? 魔殺商会の……」 「……いえ」  リリーのことだ。彼女に近しい人物は、みんな彼女を鈴蘭と呼んでいる。  ということは、このラティもあの会社の社員?いやしかし、彼女は運営側の人間だし。だとしたら、ラティも何か弱みを握られてそうなことを……?  そのとき、わぁっ、とステージのほうで歓声が上がった。入ったときはプロが歌っている様子だったが、いつの間にかカラオケ大会見たくなっているらしい。  まるでそんな喧騒《けんそう》を計ったかのように、ラティが声を潜《ひそ》める。バーテンを含め、誰の目もこちらを向いていないときに。 「ヒデオさん、少し真面目《まじめ》な話なんですけど……その鈴蘭様から、この大会について何か聞きましたか?」  心当たりは……いや? 逆にちょっとカマをかけてみようか。 「アルハザン……ですか」 「あ、やっぱり。ヒデオさんほどの人なら、あるいは声をかけられたかと」  リュータ、エリーゼ、リリー、そして今度はこのラティだ。何の脈絡もなさそうな人たちが、一様に口にする。いったい何なのだろう? 「でも、僕は。詳しくは」 「そうですか……じゃあ、これは私からの忠告なんですけれど」  ヒデオは無言で頷いた。 「エリーゼ社長もそうだったようですが……あの組織はこの大会の有能な参加者たちに、積極的に接触を試みているようなんです。もちろん優勝候補のヒデオさんも、例外なく」 「……しかし」  そんな怪しげな連中に出会ったことは、まだ一度もない。 「今まではなくても、いずれ……何らかの形で接触があると思います。ヒデオさんは開会直後に魔殺商会に入ったから、接触する機会がなかったというだけで」  アルハザンという組織と、あの会社と。どうやら敵対しているようだ。  鈴蘭も……エリーゼにでも聞いたのだろうか。情報を得られたと、喜んでいる様子だった。リュータも、アルハザンに心当たりはないかといっていた。ならばよほど正体が判然としない、尻尾を掴《つか》ませないような、神出鬼没の組織なのか。 「鈴蘭様が、狙《ねら》われるかもしれないヒデオさんをあえて自由にしたのは……あなたならば、アルハザンの接触があっても、組《くみ》することも、屈《くっ》することもないだろうと、そう買ったからなんです」  それはヒデオにしてみれば、少なからずショッキングな話だった。早い話が、エサとして泳がされているのだと。  あれだけの苦闘の果てに得た、グランプリの優勝。完膚《かんぷ》無きまでに叩《たた》き付けたはずの、一億チケットの辞職願いが……わざと受け入れてもらったものだったと? そこには自分の意思もウィル子の意思も関係なかったと?  ヒデオはグラスを、浴びるように大きく傾ける。 「……すみません。でも、知っておいて欲しくて……鈴蘭様たちは、なんというか……かなり自分本位なかたたちで。私はただ一言、気を付けてくださいって、言いたかっただけなんですけど」 「……。いえ」  ありがたい。ラティの心遣いは素直に有り難かった。ただ……結局はその程度である自分。利用されていることも知らずに、舞い上がっていた自分が。虚《むな》しい。  どれだけ頑張っても、結局はそれだけのことなのか……と。 (……だから)  だから、ヒキコモリがいくら頑張ったって無意味なんじゃないかと……また、悪いほうへと想《おも》いが傾く。 「未来視はこれまで、神殿協会の預言者しか持ち得なかった、唯一無二の絶大な能力です。それは誰よりも、持ち主のヒデオさんが一番わかっていると思いますけど……」  しかし……そもそも、魔眼なんて誰が言い始めたんだっけ? (……。ああ)  ようやく思い出した。なんで今まで思い出せなかったのだろう。大会初日、最後の勝負相手。吸血鬼のヴェロッキアが言ったんだ。そうしたらあっという間にその噂《うわさ》が広まって。 「だからこそ彼らもより巧妙に、慎重に接触してくるはずです。ですから、気を付けてくださいね。もし何か異変に気付いたら……私でも、鈴蘭様たちでも構いません。すぐに知らせてください」 「そう、ですか」  ヒデオはツマミのライムをがじり、グラスの酒を飲み干した。 「最近ヒデオさんが外出を控《ひか》えていたのも、ひょっとしたら何かあったんじゃないかって……心配してたんですよ。今日も、それで声をかけさせてもらったんです。何でもなかったんですね。よかった……」  優しい人だ。  ならばせめて、そう思ってくれている人のためにも、頑張らなくてはいけないのでは。 (そう、か……)  自分一人のことと決め付けて、どうのこうのと悩んでいるから「仕方ない」なんてところに行き着いてしまう。  ならば誰かと会話をして、ほんのちょっとでも意思を疎通《そつう》する。そこから生まれた頑張ろうの気持ちは、自分一人で決めたそれより、ずっと強く思える。だからこそ外に出て、人と会って、話すことが重要なのではないか。 「おっとチャンプ、もう空じゃないか。次は何を飲む?」 「……では。同じ、ものを」  ヒュウ、と口笛をいなすバーテンダー。 「さすがチャンプだ、嬉《うれ》しいね。ああ、男なら黙ってこいつさ」  一敗目とは違った穏やかな気分で、ヒデオは注がれていく液体を眺めるのだった。     3  さてウィル子、当初は激怒していたものの、うきうきと指定の酒場にやってきた。ゴミクズ人間から脱却《だっきゃく》を願っているのは、本心なのである。ここで真人間に生まれ変わっていればそれでよし。  でなければ、リリーと高瀬に頼んでプラン通りの荒療治《あらりょうじ》しかあるまい。自分から立ち直ろうと思わない奴《やつ》は、結局どうしたってダメなのだ。だったら悪魔と呼ばれるほどの人道外れた精神崩壊ギリギリのショック療法しかないではないか。  それだったらとりあえず笑えるし。 「にはは」  果たして引きこもりは独力で脱ヒキコを果たすのか!? それとも哀《あわ》れ悪党どもの食い物、笑いものにされてしまうのか!?  入った店の名前は『リトルチップス』。どうやらステージの方でイベントをやっているらしく、店内は大いに盛り上がっていた。 「ま……、まさかマスターが!?」  と思ったが、そうではなかった。  バラードを弾き語りした見知らぬ女が、ステージを降りる。盛り上がってはいるが、彼女に対する拍手はややまばら。 《ちょっと及びませんでしたかニャ?またの挑戦をお待ちしておりますニャ》  ジャッジの腕章をした、制服姿の大家さんが舞台横でニコニコ、耳をピコピコ。 《それでは次の挑戦者ですニャ。吟遊詩人のピート・ブランカムさんですニャ》  そして竪琴《たてごと》片手に、今度は古風な装束の男が壮大な叙事詩を歌い始める。おおお、とどよめく店内。 「……おや、ウィル子ちゃんじゃないか」 「あー、全身タイツのお一人」  昔の同僚にバッタリ出くわした。といっても全身タイツは、みんな同じ模様のマスクなので誰《だれ》が誰やらなのだが。 「これは一体?」 「歌での勝負だよ。ここにいる全員で、どっちがよかったかを決めてるんだけどね」  なんとまあ。 「この酒場にはレミーネっていうすごい歌手がいてねぇ。ときどきのど自慢の連中が、ああして挑戦しにくるんだけど……」  全身タイツがステージを振り返る。吟遊詩人というだけあり、聞いた分には下手《へた》なオペラ歌手よりも音量、技量、秀でている風である。しかし実際の評価はというと……さっきの弾き語りほどではないが、万雷の拍手というほどでもない。 《残念、ピートさんも敗退ですニャ。後でセンターでの手続きを、よろしくお願いしますニャ》 「……どれだけなのですか、その歌姫の歌というのは……」 「しっ。次が彼女の番だ。まぁ聞いてみな」  やがて聞こえてきたのは、あたかもハープのように透《す》き通《とお》る歌声。ステージに立った、薄い色のローブを身にまとう女が一人。あれほど騒がしかった店内が、一音一音を聞き逃すまいとするかのよう。  伴奏もないのに、それ自体が深みのあるオーケストラの如く響き渡る。いや、それに触発されたように、負けたはずの先のギター弾き、吟遊詩人が陶然《とうぜん》と、即興で奏《かな》で合わせてしまうほどに。敵さえも魅了《みりょう》してしまう歌声。 「はあぁ……なるほど……」  ネットの海で、電波ソングからオペレッタまで、あらかたの歌を聞きかじってきたウィル子でも、これはどの歌声はちょっと知らなかった。 「ああ、癒されるなぁ……。なんでも彼女、セイレーンらしいんだよ」 「は?セイレーンって……歌で船乗り誘って、沈没させるとかいう?」  ウィル子の問いに、全身タイツは首肯《しゅこう》。 「どうだい、優勝候補のウィル子ちゃんも挑戦してみたら。盛り上がると思うよ?」 「いや。そんなの勝てるわけが」  ふっふっふっふっふ。 「……何なのですかー、このイロモノ全開な笑い声は」 「いや、失礼。うちのレミーナに興味津々だったようなので、つい……」  見るとそこには、いかにも業界人っぽい小洒落《こじゃれ》た男が立っていた。サラサラヘアーに色の薄いサングラス、いまどきカーディガン代わりにセーターを肩にかけている。袖《そで》を胸の前に結ぶアレである。 「ああ、申し送れました。僕は彼女のプロデューサーをしている、アイマス@田岡という者です。どうぞよろしく」 「アイマスですかッ!?」  これがヒデオだったら容赦《ようしゃ》なく突っ込んでいるところだが、相手は初対面なのでそこは抑えるウィル子。 「なんか、いよいよ本格的電波系イロモノの登場ですが……」 「あなたが噂に名高い優勝候補、ウィル子さんですね?」  値踏みするように、サングラスを持ち上げる田岡。 「どうです、そちらの彼の言うとおり……うちのレミーナに挑戦してみませんか?」 「う……そんなこと言っても、歌でなんて勝てるわけがないのですよー。ほんとのアイ@マスならともかく」  電子戦なら圧勝だ。だが同じように、歌ならばレミーナという彼女の圧勝に決まっている。  そうこうする内に彼女の歌が終わり、クラシック演奏会のような、暖かで盛大な拍手が沸き起こった。感涙するものも多い。昨日の敵は今日の友とでも言うのか、レミーナはギター弾き、吟遊詩人とも握手を交わしたりして讃《たた》え合っている。 《ということで、またもレミーナさんの勝利でしたニャ。まだまだ挑戦者をお待ちしておりますニャ?誰かいませんかニャ》  そこで一旦ん閉幕なのか、レミーナが壇上から降り、こちらにやってきた。  セイレーンは伝説上の存在なので、はっきりとした年齢は知れないが……三十の手前くらいか。楚々として控えめ、ワンレングスの美しいブロンドもあいまって、あたかも神話に出てくる女神のよう。 「プロデューサー、いかかでしたでしょうか、わたくしの今の歌は……」 「甘ったれるんじゃない!」  ぱしん!  と、田岡がいきなりレミーナの頬《ほお》をたたく……フリをした。寸前で自分の左手を叩く、彼の服が流行だったトレンディーな時代に。コントで流行ったアレである。 「あの程度のことで、本当に世界を取れると思っているのか!?」 「す、すみませんプロデューサー……でもわたくし、精一杯……」  ぱしーんぱしーん、と右左。レミーナの顔の直前で、自分の手を叩く田岡。レミーナは小さな悲鳴を上げて、その場に倒れこんだ。 「口答えなど聞きたくはない。忘れたのか、二人で誓い合ったあの夢を!パイタッ……もとい、世界一の歌姫」  ごっ。  鈍い音を立てて、田岡の眉間《みけん》にウィル子のゲンコツが入る。 「ぐぅお……な、なぜ……!?」 「アイマスはもっとハートフルなゲームです」  でもってレミーナは横座りのまま、しくしく泣きながら。 「世界が君の歌を待っている、という口車に乗せられて、この方に付いてきたのはいいですけど……」  口車の時点でよくない気が。 「なぜかことあるごとに、わたくしの胸に触ろうとするのです……」  ウィル子はもう二発ほど、田岡の眉間にゲンコツの硬い部分をぶち当てた。 「だったら、さっさと離れてしまえばいいではないですか……」 「それが、わたくしたちセイレーンは……陸に上がると、てんで方向音痴に、帰りたくても一人では帰れないのです」 「それはまた難儀《なんぎ》な設定というか……」 「ああ、あの青い地中海に帰りたい……」  しくしく。 「そしてスエズから来る、あの大型石油タンカーを沈めたい……」  ……。 「田岡、ある意味グッジョブですか」 「そうでしょう? わかりましたか? 文句があるなら、歌で勝負してもらいましょうか?」  踊りで勝負よ、とか言われたほうがまだ楽だったか。 「レミーナが負ければ、僕の教育方針が間違っていたことを認め、手を引きますよ……いかかです?」  しかしレミーナはめそめそと、気弱そうに首を振る。 「あの、別にいいんですよ……。私、こうして皆さんに歌を聞いてもらうことも意外と好きですし……胸といっても、全《すべ》て未遂《みすい》で終わらせてますし」 「ううぅ……なるほど」  彼女の実力を知ってもなお、参加者たちが歌で挑まなければならない理由。  大人《おとな》しく薄幸《はっこう》なレミーナと、あくまでも強気でどこかむかつく田岡。この対比を見れば、誰だって口を挟まずにはいられない。彼女を解放してやりたいと思うのが人情なのだ。  そして気付けば、期待の眼差《まなざ》し、酒場中から集まる希望の視線。 「おお、あなたこそはかの名高き優勝候補、ウィル子殿ではありませんか! あなたのお力でなんとかなりますまいか!?」  長い髭《ひげ》をしたさっきの吟遊詩人が、懇願してくる、ついでに最初の、ギターを弾いていた女も憤慨《ふんがい》して。 「レミーナの歌は、こんなインチキペテン師なんかいなくたって充分世界に通用するわ! お願い、彼女を助けてあげて……」  やいのやいのと。  なんか困った流れになってきた。 「……あの。だったらつまり、レミーナが手を抜けばいいのでは?」 「そうしたいのは山々なのですけれど……歌い始めると、本能的に没頭《ぼっとう》してしまうのがセイレーンなのです……」  また厄介《やっかい》な設定が。  それでなくともセイレーンという無敗の歌姫に、優勝候補が挑むという好カード。これで盛り上がらないわけがない。すでに逃げ出せる雰囲気ではない。 「ううぅうぅ……!?」  こうなったら手近な所から、プロの歌手のサンプリングを引っ張ってきて……?  だが聖魔グランプリのときにはっきりとわかったが、人の真似《まね》というのは存外にうまくいかない。しかも今回は車を操るのではなく、自分自身なのだ。歌自体は真似られたも、それは自分の声ではなくなるだろう。 「ふっふっふっふっふ。失礼失礼、僕としたことが、少々酷《こく》を言ってしまったようで。ええ、無理にとは言いません……」  くいっ、とサングラスを押し上げる田岡。 「ウィル子さんのロリボイスではパイタッ……もとい、世界を狙う僕たちの夢を阻止《そし》することは、到底《とうてい》不可能でしょうからね」 「じっ……上等なのですよー! そこまで言うなら……!!」 「待った」  静かな声が、酒場の片隅からかけられた。  ウィル子が見ると、そこには非常によく見覚えのある、パジャマ姿の青年が一人。隣でおどおどしているのは、久しぶりのラティだった。 「ちょっと、ヒデオさん……? 大丈夫なんですか……? 足下が……」 「大丈夫。意識は、はっきりしています」  フラフラ。スツールから降りた足腰は、いつぞやのようにまるでおぼついていない。 「ま……マスター!?」 「君には少し、迷惑をかけてしまったが……。僕はもう、大丈夫」  やっぱり。やっぱりやっぱり、この男はすごいのだ!  ウィル子は知っている。それこそがパートナーとして最も信頼すべき、戦士の眼光であることを。  ヒデオはその双眸《そうぼう》でまっすぐに田岡を見据《みす》えたまま、彼の前までやってくる。 「な……なるほど。噂の優勝候補、確かに今までの挑戦者とは迫力が違います……!」  この目、この声、魔殺商会を向こうに回し、数多《あまた》難敵を打ち破ってきた男のそれ。アパートではちょっと言い過ぎた気もしたけれど、やはり彼は窮地《きゅうち》に陥《おちい》ってこそ、その本領を発揮する! 《これは来ましたニャ! ヒデオ・ウィル子ペアと田岡・レミーナペアの勝負ですニャ!》  そして割れんばかりの大歓声が巻き起こる。 「ふっふっふっふっふ! かかりましたね川村ヒデオ。他《ほか》ではどうだかわかりませんが……歌で勝負する以上、あなた方に勝ち目はありません!」 「そんなこと。やってみなければ、わからない」  にらみ合う両者。 「さすがマスターです!!」 「任せろ、ウィル子。僕を誰だと思っている」  そしてヒデオは、マントを翻《ひるがえ》すかの如《ごと》く群集へ向けて手を振りかざした。 「このパジャマ神に挑むとは、愚かな人の子め。全てのパイは我が手にこそ相応《ふさわ》しいという大@宇宙の法則を忘れたか」 「「「……。」」」  スゴゴオオオオオオオオオオッ……!!  窓も開いていない店内に、一陣の嵐が吹きすさんだ。     4  神、再臨。 「って、どんだけ飲んだのですかマスタァアアアアアアアア!?」 「……やぁ、電子の神、僕は今日からパジャマ神になっ」 「いいから師ね! 氏ね! 市ね! 死ねッ! 」  ごがっ! ごっ! ごっ! ごっ! 「ウィル子。君は……実は、ツンデ」 「お前マジいっぺんqあwせdrftgyふじこーpッ!?」  興奮のあまり、言語中枢《ちゅうすう》みたいな部分を炸裂《さくれつ》させるウィル子。 「う、うわぁ……やっぱりヒデオさん、なんか様子がおかしいと思ったら……」 「ラティさんあなたですか!? マスターの頭をどこまで吹っ飛ばしたのですかああああああっ!?」  キシャアアアアアアッ!! 「ひぃい!? ごめんなさいごめんなさい! 知らなかったんです知らなかったんです気が付いたらテキーラのボトルが空になってたんですよぅ……!」 「てっ……テキーラ!?」  アルコール度数四十〜五十パーセントはある、しかも割らすにストレートで飲むのが常道という、とっても男らしい酒である。初日の宴会、ヒデオの思考を吹っ飛ばした駆け付け三杯分のアルコールが、そのたった一杯に凝縮されているといっても過言ではない。 「うああ、どーするのですか!? もう勝負に乗ってしまったのですよー! こんな状態でどーやってレミーナに勝てと!? どーやってそんな奇跡を起こせと!!」 「僕も。パジャマ神の、成りたて。奇跡の一つも起こせずして、何が神かと」  がごすがごすがごすがごす!!  全弾眉間にクリーンヒットされると、さすがに痛くなってくる♪ 《えー、ヒデオさんの頭がだいぶ愉快になってますニャ♪ 勝負不能なら不戦敗になりますニャハ♪》  大家さんまで乗ってきた♪ 「やっほぅ」  ぼごふっ!! 「何とかします! 何とかするのでちょっと時間を! せめて後攻で! そこのところはどーなのですかアイマス@グッジョブ田岡氏ッ!!」 「はっ!?」  ヒデオの奇態に呆気《あっけ》に取られていた田岡が、ようやく我に返る。いや、何も彼に限ったことではなかった。 「えっ……、ええ。もちろんそれは敵《かな》いません……いや失礼もとい、かまいませんとも」  ものすごいものを見ると、人間混乱するものである。 「それにうちのレミーナにも、少し休憩がほしいところです……では三十分後に勝負、ということならいかがでしょうか?」 「さすがグッジョブ田岡!! 敵ながら感謝するのですよー!!」 「あ、言え、私の名前はアイマ……」  ともかくウィル子はヒデオを引《ひ》っ掴《つか》むと、控え室にヒデオを放り込んだのだった。     ・  勝負事でなくとも、酒場ではピアノの弾き語りやダンサー、マジシャンなんかもステージに上がる。そうした芸人のための楽屋である。 「よく考えたら大会役員の不祥事ですッ! ラティの権限で勝負を取り消すのですよー!」 「えぇえ!? そんなのだめですようぅ! 私は一緒にいただけで、かってにぱかすか飲んでたのはヒデオさんなんですから! 元よりそんな権限もないですから!」  不毛な言い争い。そして狼狽《ろうばい》。 「しかし。歌えといったのは、ウィル子であり……」 「勝負に乗れとまで言ってませんがっ!!」 「神も、スターも、似たようなもの……歌も歌えずして、何が神か」 「どこからその自信が来るのですかっ!? 以前のように岡丸の力を借りるわけにはいかないのですよー! 実は岡丸は歌が上手! こっそりマスターが隠し持って口パク! そんな都合のいいこと、起こりはしません!!」  と言って楽屋の出口を振り返るウィル子。  …………。  ……当然、見計らったかのように美奈子はやってこなかった。 「……こっ、こんな下らないことでウィル子たちは敗退してしまうのですかぁ〜……。しかもあの、グッジョブ@田岡を相手に……」 「数奇な運命ですよね……私もまさか、ヒデオさんたちの最期を見届」  キシャアアアアアアッ!! 「ひぃい!? ごめんなさいごめんなさいっ! かじらないでくださいよぅ!!」 「はぁ……とりあえずマスターが歌う気満々のよううなので、それだけが不幸中の幸い……。不戦敗は免《まぬが》れるとしても」  問題はどうやって勝つか……。  どうやって? (……)  あれ、とヒデオは思った。 「……? どうしたのですか、ますたー。顔色が悪いのですけど……」 「……」  どうやって勝つかなんて、問題ではなかったはずなのに。あれ? じゃあ自分は今、何を疑問に思ったのだろう?  ……。 「そ……。そう、か……」 「って、以前のようにぶっ倒れてもらっては困るのですが!?」 「否。そうでは、なく」  具合が悪いわけではない。むしろ好調の部類だろう。 「大変なことに、気付いてしまった」 「な……何なのですか?」 「……僕は。神では、なかっ」 「それは気付いたではなく酔いが覚めたと言うのですよ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?」  しかも最悪なことには、以前のように記憶が吹っ飛んでいないのだ。  ラティの話も、その最中にヴェロッキアを思い出したことも、田岡との勝負に乗ったことも、これから始まることも……あまつさえ、あれほどの群衆の中で自分がパジャマ神であることを白状したことも、全て。 (……。)  ごめんなさい、世界。 「……死んで、お詫《わ》びを」 「するなああああああああああっ!!」  滂沱《ぼうだ》の冷や汗でガタガタ震えるヒデオに、グーパンチ。 「でっ、ではっ……償《つぐな》いを」 「そこではなくッ! 死ぬほうをやめろとッ!! あぁ〜〜〜〜〜〜ッ、もうほんとの振り出しにまで戻ってどーするのですかぁああああああああああッ!?」  しょんぼり。 「さ、最悪なのです……最悪の事態に陥ってしまったのですよー……」 「あのぉ。ヒデオさん、まだ酔いが……?」 「え? あ、あぁ、えっと、そうなのですよー。酔うとやたら意味不明の怠け者のヒキコモリに……」  ラティは参加者ではなく役員なので、正体がばれても不利ではないだろう。でもあれだけ心配した相手が、魔眼でもなんでもない、ただのヒキコモリだなんて知ったら……。  そわそわとヒデオが時計を見ると、勝負開始まで後十五分しかなかった。まるで、残り十五分が余命であるかのような錯覚《さっかく》。  中毒ではなく、震えが収まらない。 「……ヒデオさん、何か暖かいものでも貰《もら》ってきましょうか?そうすれば少しは落ち着きますよ、きっと」  ニコリと笑ってラティが出ていく。楽屋に二人残されて。 「正直、思うのですが……マスターはこれとは比べものにならない修羅場《しゅらば》を、何度もくぐってきています。何を恐れるのですか……」  でも今までとはあからさまに勝負の質が違う。痛いこととイタイことだったら……。 (……。否……)  ……そうだ。痛いほうが、辛《つら》い。ここに来たばかりの自分ならわからないが、今は知っている。傷付くことの辛さ。争うことの悲しさ。聖魔グランプリで嫌というほど味わって……それが嫌で、また引きこもってしまったのだ。  だが、ウィル子の言うとおりでもあった。今回は違う。歌。少なくとも、痛みや恐怖とは無縁の勝負。あの雨中強行軍に比べたら。 「……なにか、思い付いたのですか?」 「いや。残念、ながら」 「でも……少し戻ってきた感じがするのですよー」  ウィル子が、少し嬉《うれ》そうに微笑《ほほえ》んだ。 「さっきセンターにアクセスして調べたのですが、レミーナの歌声にはセイレーンの伝説どおり、特殊な魔力が込められているようです」 「セイレーン……、か」 「幸いグッジョブのおかげで、実際にはタンカーを沈めるほどのヤバイ歌ではなく悲しい歌ばっかり歌っているらしいのですが……」  確かに、レミーナの歌を聞きながら泣いている人は大勢いた。自分もこの酒場に入ってきたときは、それが心象にとてもあっていた。 「純粋な歌唱力はもちろんですが、聴衆はそれプラス魔力で感化され、彼女に投票してしまう……とりうことみたいです。サクラを用意した挑戦者でさえ、負けたらしいのです」  田岡の比類なき自信は、その仕組みを知っているからか。だがレミーナ自身は……そんな悲しみの歌しか歌えないことを、どう思っているのだろう。そう考えれば、意図《いと》してそんなサブリミナル的能力を使っているとも思えなかった。  つまり純粋に歌った結果、聴衆が感化される……付け入る隙《すき》があるとすればその一点。 「ますたー?」  ヒデオは断片的な、まとまりのないパズルのピースを、頭の端々に浮かべながら。 「……歌って、みよう」 「えっ……歌えるのですか? というか、ますたーって歌ったことが!?」  人をなんだと思っているのか。こんな得体の知れない世界ではなく、ちゃんと表側の社会で義務教育を終えている。音楽の時間とか、校歌とか、歌う機会はいくらでもあった。 「お待たせしました。ちょっとでも喉《のど》にいい方がと思って、ほっとレモンを作ってもらいました」  トレイに湯気の立つグラスを三つ。ラティが戻ってきた。 「レミーナさんたち、もうステージ横で準備してますけど……お二人は、もう何を歌うか決めました?」 「あうう、それが……」  ラティの顔を見て、彼女との会話を思い出す。それを引き金として、思考の断片は、ヒデオの中で一つにまとまる。 「勝ちを見据えられるほどの、ものでは。ないけれど」  ヒデオはウィル子に告げる。曲名は少し忘れたが、それがかかっていて場面を告げる。 「「えぇえええええええええええっ!?」」  ……ものすごい勢いで、二人に驚かれた。 「まっ……まままますたー、あれを歌えるのですかっ!?」 「す、すごいです! 私、惚《ほ》れちゃいそうですっ!!」  ……。  ヒデオはホットレモンを一口。  自然と言葉が浮かんできた。 『I gotta believe』  どうしてこんなにも大好きだった言葉を、自分は忘れてしまっていたのか。  もう、迷いはなくなっていた。     5  歌い終えたレミーナが、聴衆に向けて楚々《そそ》とお辞儀をする。 《ありがとうございましたニャ。相変わらず素敵な歌でしたニャ》  鳴りやまない拍手。拍手。拍手。讃《たた》える声。ハラハラと涙を流す聴衆たち。  この時点では、完全に流れはレミーナのものである。だからこそ、後攻を取れたのは不幸中の幸いであった。最期にこの空気を作られてのでは、誰《だれ》だってレミーナの歌を選んでしまうだろうから。  そうしてヒデオはステージから降りてきたレミーナと、すれ違う。 「すみません……やはりわたくし、加減ができないようです……」 「いえ。お気に、なさらずに」  自分が聴衆だったら、やはり誰が相手だろうと彼女を推《お》したに違いない。 「ところで。セイレーンは、楽しい歌は」 「? ……はい。もちろん、歌えます……というより、歌いたいのですけど……」  視線の先には、客に混じってクッとサングラスを持ち上げる、田岡の姿があった。 「故郷を思い出すばかりで、気持ちが入らないのです……」 「では。もしよかったら、一緒に」  それだけ言って、ヒデオはステージに上がった。先に上がっていたウィル子は、カラオケの機械に触れて眼を閉じている。ヒデオは軽いめまいで、彼女が力を使っていることを知った。 「……準備オーケーなのですよー! それでは張り切っていきましょう!」  レミーナと違いアカペラは無理。そこまでの声量もないのでウィル子と二人、一本ずつのマイクを手に。流れてきたのは、ピアノの伴奏の軽快なリズム。  ヒデオは言う。  やみんな、パーティーの時間だ。気分はどうだい? じゃあ始めよう、チェック・ディス・アウト……!  それは発音も、イントネーションも、まるででたらめな英語であった。だが、ただ一点。リズムだけは完璧《かんぺき》に通す。  心はすでに、あの頃に戻っていた。それはヒデオの思い出の歌だった。ヒデオの生きてきた中で、これ以上ない楽しい歌だった。  パラッパラッパーのラストステージでかかっていた曲。そういっただけで理解し、喫驚《きっきょう》したのは……さすが電子の精霊と、サブカルに詳しいラティといったところか。  それまでくすぶっていたリズムゲームというジャンルに火を付け、今の地位にまで押し上げた至高の名作。その名作足りえる所以《ゆえん》の一つが、この一曲。  かけ声にはまず、ウィル子が合わせる。元からの愉快で元気名乗りで合わせる。   みんな、ホーだ!   ホゥ、ホゥ!!   そう、ホゥ、ホゥ!   ホゥホゥホゥ!!   そして大声で!   WAAAAAAOッ!!  たったこれだけでいいのだ。細かい歌詞はうろ覚えでも、大事なのはラップのノリと、この掛け合い。魔力なんかなくったって、元より音楽は、リズムという名の人を魅了する力に溢《あふ》れているじゃないか。  レミーナに挑戦したものたちは、きっと勘違《かんちが》いしていたのだろう。だから派手な歌ではなく、歌い手の技量を表しやすい、落ち着いた曲調の歌ばかりだったのだろう。  だが、これはコンテストではないのだ。適当に酒の入った聴衆が判断する。レミーナがそれを魔力で感化するというなら。こちらは向こうにはない、ノリで引っ張り込めばいい。  セイレーンの切ない歌に、心締め付けられるような感動の後。だからこそ、反動のようにその陽気なリズムが心を、身体《からだ》を躍らせる。   もういちょ、ホーだ!   ホゥ、ホゥ!!   ホゥホゥホゥ!   ホゥホゥホゥ!!   そして大声で!   WAAAAAAAAAAAOッ!!  やがて先ほど敗れた参加者も、聴衆も、ステージに上がって踊り始める。そんなハジケた光景に、何かを思い出したようなレミーナまで……。  もう止まらない。ウィル子は望まれるまま、半《なか》ばエンドレスで曲を流し続けた。そしてヒデオは歌い続けた。   もしものときはどうすれば?   ぼくは信じるよ。   ぼくならできると。  そんな……昔友人たちと、英和辞書と首っ引きになって付けた翻訳を思い出しながら。胸に、刻み続けながら。     ・  結局酒場という場所も手伝ってか。あとは勝負そっちのけ、酔っ払いたちによる大盛り上がり大会。ウィル子が適当にノリのいい曲ばかりを選び、歌い手は歌を、踊りたいものは踊りを。  ヒデオが火をつけたパーティは日付が変わるまで続き……いつしか誰も彼もが騒ぎ疲れて酔いつぶれて、残ったのは祭りのあとの静けさばかり。 《……えーと、そういえばどっちが勝ちましたかニャ?》  大家さんも仕事を忘れて酔っ払っていた。  余韻《よいん》に浸《ひた》るヒデオの元へ、レミーナと田岡がやってくる。 「ありがとうございました。あなたのおかげでわたくし、歌うことの楽しさを思い出せたような気がします」  続いて田岡。 「僕も、大人《おとな》しく認めますよ……僕の教育方針が間違っていたことを」 「……。しかし」  ヒデオの記憶する限り、ジャッジの大家さんはまだ勝敗を下していない。 「いいんですよ……今日僕は、レミーナの新たな一面を発見したんですから」  そうして田岡が振り返ったレミーナには、憂《うれ》いの陰はこれっっぽっちもなくなっていた。切々と歌い上げる彼女も神秘的であったが、穏やかな表情は、より一層、そんな彼女の魅力を引き立てているような気がした。  誰だって、泣き顔よりは笑っているほうがいい。 「哀愁《あいしゅう》を漂《ただよ》わせる女が垣間見せる笑顔。ギャップという名の……まさに萌《も》え、ですよ」 「……。田岡氏」  ガッ! と、漢たちは固い握手を交し合った。その熱気に、レミーナが冷や汗半分。 「あの、よくわからないのですけど……。わたくしとプロデューサーは、歌で世界を目指そうと思っていただけですから。気にしないでください」  レミーナに同意した田岡が、サングラスを押し上げながら肩をすくめた。 「それにこの都市で主に行われているような、野蛮な戦闘行為は僕たちには向いていませんからね」 「そう、ですか。ありがとう、ございます」  見ればウィル子もアルコールを入れたらしく、赤い顔で眠ったままふわふわと、その辺を漂っている。聞けば喜んでくれるだろう。 「わたくし地中海に帰る前にもう少し、プロデューサーと陸を回って、皆さんに歌を聞いてもらおうと思います。  それではヒデオさん、さようなら」 「彼女のコンサートか開かれる時には、あなたたちも招待させてもらいますよ。ではいずれまた。失礼」  レミーナと田岡はそれぞれの笑顔を残すと、敗退の手続きをするためか、酒場を出てセンターの方に去っていった。 「よかったですね、ヒデオさん」  と、いつの間にか側《そば》にいたラティ。 「ええ。まぁ」  ヒデオはちょうど虚空《こくう》を漂ってきたウィル子の手を捕まえると、風船を引っ張るようにして家路に着いた。途中まで同じ方向だからと、ラティも一緒についてくる。 「ヒデオさんかっこよかったですよぉ……! あれをわざとクールに歌っているところなんか、ギャップという名の萌え! って感じでした」  ……。この街で流行っているのだろうか。  実際にはわざとではなく、いつもどおり表情に乏しかったというだけで。  でも楽しかった。本当に楽しかった。 「あれを歌えばこうなるって、わかってたんですよね? やっぱりすごいんですね、未来視の魔眼って……!」  そこで騒ぎの余韻が、ちょっぴり冷めた。  実は今回の勝負、ヒデオは半ば投げていた。今までほど勝ちにこだわってはいなかった。  このまま大会を続ければ、いつかまた、グランプリのときのような辛い目に遭うのでは……という怯《おび》え。そこに、どうせ最期なら、せめて楽しく終えられれば……という思い。そしてもし、歌の魔力を持つレミーナを乗せ、楽しく歌ってもらえたなら。こんな自分の鬱《うつ》の気も少しは解消するのでは……という、淡い期待。  威張るれる動機なんて、これっぽっちもなかったのだ。 「でもヒデオさん、どう……」 「まぁすたぁ〜……どうやってあの歌を覚えたのですくぁ〜……」  半ば夢心地なウィル子の声に、ラティがくすっと笑う。聞こうとしていたことは同じらしい。 「……高校の、体育祭で、クラスの、応援歌でした」 「へぇ〜っ! すっごいお洒落《しゃれ》ですよね、それって!」  本当に楽しかった。あのステージにいる間、すっと青春時代を思い出していて。  週末は夜な夜な誰かの家に集まってゲーム三昧《ざんまい》。そこに二人くらい音楽好きな連中がいて。中古で安く買ってきたプレステと、パラッパで徹夜した朝……みんなでこれを応援歌にしようと盛り上がって。クラスのみんなに大ウケして。体育祭は、もちろん大成功で……。 (……。でも) 「……ヒデオさん?」  いくらあの頃を思い出したところで。結局自分は、あの頃の自分ではないのだ。同じ自分なのに、あの頃と何が違うのだろう。  何が、違ってしまったのだろう?  どうすれば、自分は生まれ変われるのだろう……? 「……あ、じゃあ私はあっちの方角ですから。今日はこれで。楽しかったです」  十字路のところで、ラティが足を止めた。 「いえ。こちらこそ、いろいろと」 「うふふ、一緒にいるのが桐島《きりしま》さんだったらよかったですね。彼女のヒデオさんのこと、いろいろ気にかけてるみたいですから」  ……? 「それではこれからも聖魔杯、頑張ってくださいね。私も個人的に応援してます」  ヒラヒラと手を振って、ラティは帰っていった。 「ウィル子もぐぁんばったのですよ〜……マイクからの入力に、リアルタイムで補正をかけてですねぇ〜……」  ああ、生まれ変わらなければ。こんな自分を応援してくれる人のためにも。このパートナーのためにも。優勝すれば、きっと何かが変わるはず。そうでなくとも、前には進み続けよう。引きこもるのは、もう止めよう。  ぼくは信じるよ。  僕ならできると。  ヒデオはその夜、眠りにつくまで。何度も何度も、胸の中で繰り返したのだった。